かしの昭和


「金環日食が見えるわよ」

洗濯物を干しに出た妻の呼び声に慌てて日食グラスを携えて、2階のベランダに駆け上がった。

NHKのテレビで放送された作法通り太陽を背にしてグラスを目に当ておもむろに振り返って太陽を覗くとリング状の太陽が薄雲を通してはっきり見えた。宇宙へのロマンを感じた。

日食を眺めていてなんだか、こんな風景子供の頃にあったような気がした。

そうだ、小学校の頃だ、理科の時間に先生から明日は部分日食だから観測すると言われ、ろうそくで割れたガラスをいぶし、ススで黒こげにして太陽を見たような記憶がよみがえってきた。

はっきりと太陽が欠けていく様子をガラス越しに見た。あれでよく日食網膜症にならなかったもんだと今になって思う。

ベランダからの眺めはマンションなどビルばかりが見える、下の道路を見ても人通りは少ない。ぼんやり町を眺めていたら、戦後の近隣の様子が懐かしく思い出されてきた。

その当時我が家は板塀に囲まれていて、道沿いの板塀が台風でどぶ川が増水する度に流された。それを父は道を挟んだ前の左官屋のおじさんと猿股一つで水をかき分けて板塀を追いかけ二人して引き戻していた。

徳島市の渭東地区大和町は戦後大工島から町名変更された町で鏡台製造の産地で活気に満ちていた。

当時の鏡台製造は製造工程が細かく区切られていて、木材加工、塗料販売、塗装(塗し屋)、生地屋、彫刻屋、加工屋などが密集していた。職人が住む長屋も沢山あって、道には人があふれていた。

特に子供は道路に出てベーゴマ(バイ)、メンコ、ゴム跳び、ケンケン、縄跳び、ビー玉、チャンバラ、押しくらまんじゅうなどして賑やかで、みんなくんずほずれつ遊びに興じていた。

そう言えば子供の声がしなくなった。音が町からなくなった。あの当時は、職人や自営業が多かったし家屋が開放的だったから色々の音がしていた。子供の歓声や鍛冶屋の鉄を打つ音、木材を挽く音、桶屋の木槌の音、木工職人の歌謡曲の歌声、隣近所の叔母さんの話し声、鳥の鳴き声、風鈴の音、物売りの声、川のせせらぎ。

そればかりでない最近は匂いも消えた。当時は常に匂いがあった。

四季の花々香り、焚き火の匂い、各家庭の匂い。夕方になると七輪で焼くさんまやウナギの何とも腹にしみわたる匂い、カレーを作る家の匂い。隣近所の料理の内容までその匂いで推測された。

そのほか、便所の匂いもした、どぶ川の匂い。肥だめの匂い。衛生状態もよくはなかったのだろうけれど、人間味もあふれていた。

福島橋から沖の洲橋まで文字通り島で福島や住吉島など島の町名がついていた。

この地区に2つもの映画館があった。よくチャンバラものを見に連れて行って貰った。鞍馬天狗が馬を走らせ子供を救いに行くシーンは手に汗を握り「もっと早く走れ」と大声で叫んだことが想い出される。

レース工場が川沿いにできたのは何時だったのかよく憶えていないが、その頃から農業用水としても使われていた小川が工場排水や生活排水まで流されるようになりドブ化して異臭を放つようになった。それまではフナやメダカ、鯉やザリガニなどがいて笹船を流したり竹竿を川の真ん中にたてて飛び越えたりして遊んでいた。蛍が生息していて寝屋の蚊帳の中にも潜り込んだきた。

レース工場には沢山の女工さんが働いていて、夏になると窓を開けるので、木工職人の若いしが沢山集まってドブを挟んでのぞき込んでいた。

今は勝手口はほとんど使われていないが、私の子供の頃は色々な職業の人が出入りした。米屋、酒屋、クリーニング、電気や水道の集金人などで魚屋は台所にあがって調理していった。母がシミーズで応対しているのを見て子供心に心配することもあった。

ここら当たりは土地が低く増水時には道とドブ川の境が分からなくなり自動車や自転車がよく落ち込んでいた。当時は経済事情もよくはなかった。治安も悪く、空き巣に狙われることたびたびだった。

我が家も父は県庁職員だったが当時の給料は安く、母が給料日を待ちかねていた。

家には鶏が飼われていて貴重な食材として毎日の卵が楽しみだった。ところが再々猫かイタチかトマコなのか鶏がすべてかみ殺されていて、母が地団駄踏んで悔しがった。朝は味噌汁を作るのによく鍋を持って豆腐屋へ行かされた。

徳島地方気象台が近くにあって、観測のための人工山や観測塔があってそこへよじ登ってよく遊んだ。そこに台長官舎が併設されていて、転勤してきた地方気象台長の家族が住んだ。

小学校三年生の時に引っ越ししてきた転校生は色が白くて長い髪を風になびかせる都会っ子だった。

その女の子を一目見て心が苦しくなった。何度も官舎の前を行き来してその子が出てくるのを待った、決まった時間に花に水をやるために庭に出てくるのだ。

顔を見ると声をかけることもできず、すぐに家に走り帰り苦しさに転げ回った。これが初恋なのだろう。

運動会の時フォークダンスがあって、踊っているときその子がいた。その子が回ってくる順番を張り裂けそうな思いで待った。あの子が来るまでどうぞオクラホマミキサーの音楽が切れないようにと祈った。やがてその子が来た。その子の手を握ったときこんな幸福なことは一生ないのではないかと思った。

“あの人は今どうしているのだろう”

こんな思いが募るのも生活の場がどんどん小さくなった年老いた姿なのだろうかと思うのである。

    

(忠)


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