の未来と私


昨年末、長女が出産準備のために里帰りした。予定日は3月26日だと言う。

40歳の高齢出産となり妊娠まで苦労した。不妊治療をしてようやく妊娠したが流産したり、卵巣腫瘍を患い手術したりして、体外受精まで考えたあげく、ようやく自然妊娠した子なので帰郷したときは並々ならぬ気合いみたいなものを感じた。

出生前検査も受けないと言う。どちらにしても生むのだから必要ないのだ。

日に日に大きくなる娘のお腹を見て、日増しに腹の子に会いたい気持ちが募ってきた。

その子の小さな手のこと、その子の小さな足のこと、まだ見えない目のこと、それからずっと先のことを思い浮かべた。

言葉が喋れるようになって、ジイジ・バアバとなつき、可愛かった子が生意気になって、背が伸びて

「孫って少し見ないうちにいつの間にか大きくなるんだなぁ」

なんて妻と話し、やがて明るくて、清楚で上品な娘に育ち、どこか私立の女子大の英文科なんかに通い、その後、会社に勤めて堅実な会社員と恋愛結婚する。そんなことを想像した。

予定日の翌々日の午前3時に陣痛が来て病院に運んだ。

すぐさま陣痛室に案内され、分娩室入りを待った。この部屋には痛みを和らげるためか穏やかで優しいメロディが静かに流されていた。

3月28日の午前中に娘の亭主も病院に駆けつけた。朝一番の飛行機で神戸に向かい、バスに乗り換え徳大前で降りて走ってきたという。額から汗がほとばしっていた。そこから交代して亭主が付き添った。

この日の夜は満月だった。そのため陣痛室は満室で、次々に分娩室に運ばれ、めでたく出産したが、

「ウチの妻だけ取り残された」

と亭主が言った。

朝になって陣痛促進剤を使って一挙に産気づいた。やっと分娩室に運ばれた。難産だった。

子宮の収縮が弱く、医師も悪戦苦闘し、本人もその痛さに苦悶した。

医師や助産師の励ましに何とか応えようとする娘の様子が分娩室のドアの隙間からうかがい知れた。待っている私たちももう手に汗を握り無事の出産を祈った。

最後に吸引器を使って、ようやく赤ちゃんの泣き声が分娩室に響いた。新しい生命の誕生だった。本当に安堵の気持ちがこみ上げた。

「おめでとう。女の子です。」

医師もそれを取り巻く助産師も喜びの声を上げて祝福している。午後1時1分だった。

助産師が赤ちゃんを抱いて亭主と共に分娩室から出てきた。

「お爺ちゃんにも抱いて貰いましょうね」

おそるおそる抱いた。ヌルッとした感触があった。命の鼓動を感じた。3,344グラムの健康そうな赤ちゃんだった。窓外に目をやると眉山は桜色に染まっていた。

4月になって母子共に退院してきた。元気な子でお腹が減ると手足をばたつかせて大声で泣いた。1人の赤ちゃんに祖父母と母親の大人3人が振り回された。むずかる赤ちゃんをあやし寝かしつけるのが、私の日課となった。私が抱くと赤ちゃんはスヤスヤとよく眠った。

妻が

「東京に帰るときは、人間ゆりかごとしてジイジだけ連れて帰ったら、ほうしたらよう家事ができるじょ。ジイジは東京好きやし」

と冗談とも皮肉ともつかぬ言い方をした。

義弟が来て長女のことを

「ぎりぎりセーフの娘だからな」

と言った。

そのとおりだと思った。結婚も出産もそうだ。時間も阿波時間だ。次女の結婚式をハワイでしたときの帰国便で搭乗最後の1人となりハラハラさせた。まぁしかしぎりぎりセーフで良かったと思った。

4月13日、早朝震度4の地震があった。

非常用の警報が「“地震です。地震です”」と機械的な声を出した。

直後、妻が階段を転げ落ちるように階下の孫と娘の所へ駆け下りて行った。私はせいぜい10秒ぐらいの揺れだし、たいしたことないと高をくくっていたので、おもむろに下に降りていくと、妻は窓を開け、玄関を開け、食卓の椅子を除き、避難路と避難場所を確保した後、娘にミルクなど赤ちゃんの日常必需品をカバンに詰めさせ、自分はしっかりと孫を抱きしめていた。

私は大丈夫だなと確認した後トイレに行き、また寝室に戻り一寝入りした。

しばらく寝て朝食に降りていくと妻が私をにらみつけて

「貴方って呑気ねぇ、家族のこと心配じゃないの?あれが南海地震だったらどうするの!」

となじった。

「たいしたことなかったじゃないか、テレビも津波はないと言っていたし、もし余震があったとしても先よりは弱いはずだし、なんの被害もないじゃないか。」

「何言っているの、あの地震が南海地震の前兆でその後に本震が訪れたらどうするのよ、貴方は孫が心配にならないのね」

と怒鳴った。

齢64歳にして未だヒステリーは治まらぬ。この妻が優しく、穏やかな妻だったら私の人生どれだけ楽しかったかと思う。

一ヶ月検診では異常はなく、病院の計量では、4.5キロだったという。抱いていてもずっしりとした感じになった。そのつぶらな瞳、薄っぺらな鼻、富士山に似た形の良いおちょぼ口、どこを見ても愛おしい。

この時期の赤ちゃんは強度の近視で赤ちゃん側から見れば丁度抱っこされている距離の顔がハッキリ見えるのだそうだ。

しかし、この赤ちゃんを見てると私は後何年この子の顔が見られるのだろうとづくづく思う。

老化は身体を劣化させていく、あまつさえ私は2度も癌の摘出手術をした身だ。

先日は風呂で顔を洗っていて鼻の穴に勢いよく小指を突っ込み鼻の中を怪我した。先々日は車を運転していて信号で停車したときに自分が何処へ行こうとしているのか判らなくなった。

あせって一生懸命考えたが思い出せない、信号が変わり発車し左へ折れて思い出した。そうだ病院の呼吸器教室に通っていて今日はその日だ。そこへ行こうと思ったら今度はその病院が何処にあるのか思い出せなくなった。

不安と恐怖に震えた。その直後全てを思い出した。車は目的地とは反対の方向に奔っていた。いずれの出来事も68年間生きてきて初めての出来事だった。

仮にあと5年生きたとしてもこの子は5歳だから私の顔など覚えていまい。よしんば10年生きたとしても、あと5年で認知症になれば私の方が忘れてしまう。しかしこの子を抱いていると少しでも長く元気でいたいと思う。そのためにも油断せずしっかり生きていこうと思った。

生後60日で娘の亭主が迎えに来た。

娘が孫と共に東京へ帰る日の我が家の柿の木の青葉は一層濃く鮮やかになっていた。

夫婦二人になった我が家はガランとしており何故か孫に歌って寝かせつけた「七つの子」のメロディが頭の中を駆け巡り耳から離れないでいる。

    

(忠)


前ページに戻る

Copyright(C)2009 徳島県中小企業団体中央会 All Rights Reserved.