ニ イ ハ オ ・ チ ャ イ ナ


 8月の末、蝉が夏を惜しむように激しく鳴く中、徳島空港には中国南方空港旅客機の銀翼が焼け付く太陽に抗うかのごとく輝いていた。これは徳島の旅行社が企画した”フレンドリーツアー中国5日間の旅”にチャーターしたもので、同僚と2人で参加した。行き先は北京、承徳、旅順、大連の4都市であり総勢115人の大旅行団である。同僚が「この運転手道知っとんかいなあ」「道迷よたりせんだろなあ」と比喩を冗談ぽく言ったが、顔には不安のスダレがかかっていた。3時間ほどで北京空港に降り立った。時計を1時間早めたが、暑くて、日本と変わらない。
 中国へ行きたいと思ったのは訳がある。中国は今日本にとって話題に事欠かない、教科書問題や小泉首相の靖国神社参拝問題がある。NHKの大河ドラマ北条時宗では、蒙古襲来で架橋に入っているが、北京は、その首謀者フビライ・ハンが大都を築き、此処を拠点とした。また大阪を蹴落として8年後のオリンピックの開催地に決まった。こういった通俗的な興味のほかに実は私、中国からの引揚者なのである。父は満鉄に勤めていて終戦の年、満1才で帰国した。運悪ければ残留孤児になったかもしれない身の上なのである。いや、もしかしたらとも思う、多分に大陸的な私は、中国に残っていたら大富豪になっていたかもしれないし、政界の中枢にいて日本と交渉しているような気もする。

 とにかく北京に無事到着した。北京市の面積は、四国とほぼ同じ、とにかく広い、しかも広大な平野で山が見えない。街は、30階建てのビルが林立し、至る所に巨大なビルが建設されている。中心街を離れると、高層マンションや工場建設工事が数多くみられ、経済に勢いが感じられる。横断歩道も信号もほとんど無い。第一交差点がみられない。道路が機能的に設計されているのかもしれない。日本人がバスの乗降する場所には、「1000円、1000円」と言ってハンカチや人形、筆などをしつこく売りにくる。来る前に同僚が言った、友人が1000円で筆10本買ったが、5年経っても使うことがないと言う。「買うのよそうな」と誓い合っていたのだが、結局ハンカチを値切り倒して1000円30枚を60枚まで上乗せさせて買った。同僚は70枚の上に10個のブローチ、おまけに白檀のセンスがついて1000円で買ったが、後で見ると趣味の悪いハンカチは40枚しかなく、しかも端がほつれていた。扇子は3回あおいで壊れた。北京は、表面では大都会だが裏に入るとゴミゴミしているスラムがある。売り子も生活がかかっているから気迫がこもっている、気圧されてしまった。

 初日は、明代の永楽帝が五穀豊穣を天に祈るために建設した天壇公園の祈念殿を参拝した。青い空を表した瑠璃瓦の三層屋根は天の極み向かって祈るように燦然とそそり建っていた。中国文化に触れた思いがした。その夜アクロバットの北京雑伎団を参観した。机を積み上げた上で片手倒立をしたり、猿顔負けの棒登りを見せたり、皿回しや輪投げなど人間業とは思えぬ曲芸は迫力満点、鍛えられた肉体だけの妙技であると思った。
 部屋に帰ったのは、10時近くになっていた。同僚が「中国の発展はめざましい、技術は日進月歩で進んでいる、あらゆる製品が製造されたら日本はどうなるのだろうなぁ」と切り出した。「日本の製造業は、賃金や、物価などコスト面でも中国には太刀打ちできん、何しろ13億もの人口があるやから、製造業が無くなってしまったら、日本の経済は衰退の一方となるんやないか」とこの同僚にとって珍しく知的な話題を出した。先輩の私は「ハードがだめなら、ソフトがあるじゃないの、金融・証券・サービス業があるし、IT技術や遺伝子技術も進んでいる」と諭すように言うと「金融・証券たって、不良債権は未解決だし、株は際限なく下がっているだろう、ITだって半導体不況で電機メーカーはリストラをやってるやないか」と同僚は口をとがらせた。反論に窮した私は「確かに製造業の空洞化は進んでいるが日本のテクノロジーは、世界に冠たるものがある、技術供与で飯が食える、むしろ中国に積極的に進出して合弁会社を創立させて、中国市場をターゲットにすればいいんじゃないの」と訳の分からぬ返答をした。徹底的に論理性を欠いた議論をした後、缶ビールをあおって眠りについた。

 明るいブルーの朝が来て、承徳へ片道5時間をかけてバスで向かった。途中万里の長城の延長である金山嶺長城に立ち寄った。長城は、石と泥で造った城壁であり、険しい山の稜線に添ってクネクネと続く。馬に乗って写真撮影をし、長城を歩く。傾斜が急で長くは歩けない。秦の時代にタイムスリップして、なぎなたのような大きな刀を持って、甲冑の頭に房を立てた夥しいほどの兵士が攻めてくる戦争シーンの映像を空想しながら山をおりた。またバスに揺られて承徳の避暑山荘に向かう。車窓からは延々と続くトウモロコシ畑が流れていく、中国は広大な大地だ。ガイドの説明によると、この地は清代皇帝が三百数十年前暑い夏を避けて、半年間政務を行った地であり、北京から360キロ離れた、海抜500メートルの高台であると言う。しかし雲一つない空から鋭く太陽が照りつける。避暑地とは思えない暑さだが、これは温暖化現象なのだと思う、昔は過ごしやすかったのだろう。
 帰りのトイレ休憩の時、トイレの前に並んだ露天で、現地のカメラマンに缶ビールを買ってもらったら、一缶3元(45円)であった、行きは同僚と買ったときは5元(75円)であった。此処でも日本人価格なのかと思った。ホテルの缶ビールは30元、実に10倍である。中国は国家が率先して日本人価格を設定しているようだ。政府経営のレストランや土産品店に連れて行かれるがこれがまた高いのである。何倍もの値段が付いていて、値切れるのだが半分の値段にしてもまだ高い。公務員という売り子が食いついて離れない。日本は2000億円ものODA援助をしている、数々の企業が合弁会社を作って雇用力を吸収している。この上何故日本をカモにするのだと腹立たしくなる。

 レストランで食事を終えて、バス待ちの時間があったので、土産物屋を避け、普通のお菓子屋に入り、チョコレートが欲しいと言った。3人ほどの店員が寄ってきた、箱に入ったチョコレートだといっても通じない、大ぶりの瓶に入った、はかり売りの飴やチョコを指さして、チョコレートだといって譲らない、それじゃ一袋買いたいと言ったら、大きいビニール袋を持ってきて、10種類ほどの瓶から次々にわし掴みにして、山のように入れて100元(1500円)だと言う。断ろうと思ったが、バスが来て結局買ってしまった、袋をもらったら手がしびれるほど重い、”ぼられたかな”と思ったが、帰国して半分を事務所に、またその半分を小袋に入れてテニスの仲間に、4分の1を毎日食しているが、これが美味しいのである。バスで勧められて買った一箱1000円の土産用チョコレートより数段美味しいのである。糖尿にならないかと心配するほどである。しかし事務所は、見ばえが悪いせいか、炊事室に放り投げられたままで未だ日の目を見ない。
 翌朝の観光は、天安門広場から始まった。広場の真ん中に立つとあまりの広さに圧倒される。広場は世界一の面積を誇る。天安門の周りには、人民大会堂がある、毛沢東記念堂がある。この記念堂は、毛沢東の遺体が、永久保存の処置が施され安置されていて、朝早くから長蛇の列である。天安門は、黄色い屋根と赤い柱が色鮮やかな色彩を見せ、毛沢東の大写真が掲げられている。ガイドが毛沢東が新中国の建国を宣言したのがこの楼上だと説明する。「金水橋」と呼ばれる美しい彫刻が施された5つの大理石橋を渡り門をくぐると、中国が凝縮された文化の行列となる。端門、午門、大和門を通りすぎると今度は、大和殿、中和殿、保和殿と続く。それぞれ皇帝が国家儀式を行った建物で、宮廷建築の神髄がある。建物の内部を覗くと皇帝が着座した椅子が置かれているが調度品がない。台湾に行ったことのある同僚が説明した「調度品の7割を蒋介石が持ち去ったのだ。台湾にも故宮があってそこに展示されているんだ」と得意げに言った。ここからさらに乾清門、乾清宮、神武門と続く、この中には700余りの建物と約9000の部屋があると言う。広大で栄華を極めているが”これは国民の税金だ”と思う。最後は政府経営の土産品店である。腰につけた万歩計を見ると既に1万5千歩を越えていた。
 続いて万里の頂上(八達嶺長城)へ行く。全長6000キロ、中国の里程で1万2000華里”万里の長城”と呼ばれる所以だ。紀元前に他国の侵入を防護するために造ったものを秦の始皇帝が繋ぎ合わせたという。ロープウェーで長城まで行ったが、その険しさ、高さにヘリコプターに乗ったような気がした。
 よくもまあこんな山の頂上に人畜で要塞ができたものだと感心する。これは偉業だと思う。

 ツアーには様々な人間模様がある。ひときわ陽気で目立つ人がいる。この人、年の割にデジタルカメラをもって、やたら周囲の人を写して、焼き付けして送ってあげると言って回る。レストランに行くと個人負担のビール4、5本追加注文して周りに勧める。当然のことに、ご馳走になった方は媚びてその人を持ち上げる、とますます陽気になる。普通10人の円テーブルでビール2本とジュース1本が備え付けられていて、それが空になると個々人で追加する仕組みなのである。41才の時、夫婦でうどん屋を開業して26年、成功して財をなしたといったことを面白く話す。私と同僚は1本ずつ注文して2人で勧めあって、他人には勧めない。たまに同僚はかっこよく隣の人に勧めることがあるが、それを恨めしく睨んだりするセコさである。我々は安月給なのである、爪に火を灯してやってきたのである。ところがこの御人は違う、財をなしているのである。それでいてこの同僚、うどん屋さんが私にビールを勧めようとすると「この人に酒勧めないで下さい、酒癖悪いんです、ストレス溜まってるんです。私保護者のつもりでこの人に付いてきたんです」なんて馬鹿なことを言う。この御人商売を営んでいるので値切るのも上手い。大連で、これも政府が経営する博物館の中の工芸品売場で、地元の公務員から博物館は赤字で協力して欲しいと宝石をちりばめた屏風や水晶の工芸品の入った陳列棚を勧められた。日本からは、かっての村山首相も来て協力してくれた。日立の社長も東芝の社長も買ってくれたとせがまれて80万円の工芸品入り陳列棚を50万まで値切って買った。こんな大きな陳列棚どこへ置くのだろうと思う。
 背筋が伸びて”りん”とした老夫婦がいる。ご主人は78才と高齢だが、バスの中で帳面を広げて、俳句をひねったりしている。教養があって校長先生の雰囲気がある。中学1年の孫を連れている。この孫も中国歴史をそらんじていて、利発そうである。この老紳士姿勢はよいが足が弱い2日目まで3度転んでズボンが痛々しく破けている。ご婦人は腰が曲がっていて介護できる状態ではない。天安門広場の前で4度目転んで指を折った。たちまち添乗員がタクシーを呼んで病院へ運んだ。軍の病院で手当を受けて2時間ほどで合流した。迷惑をかけたと同じツアーの人たちに何度も謝った。車椅子が用意されたがあまり乗りたくなさそうで、その後も歩いていた。孫は車椅子を押す風でもなく、手を引く様子もない。同僚が階段で手を貸した後「婆さんが孫にちゃんと面倒見るように言うべきだ」と憤慨した。どうしてこう老人はおとなしくなってしまったのだろう、老人が口やかましくして子は躾けられるのだと同僚の言葉は、そんな実感がこもっている。この老紳士をかいがいしく世話する人がいる。こわもてで押しが強い、それでいて義理と人情に厚い任侠のような社長はこの老紳士を大事にした。階段は担ぎ上げて登った。私が老紳士に「痛くないですか?」と言ったら「痛みはないのです」と言っているのにこの社長、「これだけ転んで痛くないわけがねぇじゃねぇか」と威圧のある目をジロリと私に向けて言った。この社長、旅行社に「いつも4号車がしんがりというのは、少しおかしくはないかい、たまにゃ順序を変えたっていいんじゃないかい」と高倉健の台詞のように言った。とたん旅行者は震え上がり「はいはい」と2度返事をして4号車は先頭に立った。先頭は何かにつけて恵まれた。頼もしく思った。 この人はハイジャックにあっても身を挺して守ってくれるのではないかと思った。

 翌日は日露戦争で激戦地として名高い旅順に行った。203高地に登り司馬遼太郎の”坂の上の雲”を思い出して興奮した。この丘を占領すれば旅順港に停泊しているロシア軍艦に大砲を撃ち込み撃沈することができる。此処で総兵員13万人が肉弾戦で突撃を繰り返し、乃木将軍の戦略で勝利をおさめたが、日本は死傷者6万人、うち1万5千人は犠牲者だという。丘を降りて大連に向かった。街の中心の中山広場の周りには、石造りの旧大和ホテルや横浜銀行といった日本の建物やロシアの建物が混在して建っており異国情緒豊かである。日本は日露戦争以来40数年間この地を統治してきた。日本製の路面電車がガタガタと走っていた。
 翌朝早く帰国の途についた。離陸が遅れた。機内に1時間閉じこめられて、騒がしくなった。「暑い」「遅れる理由を説明しろ」「何んとかしろ」口々に叫び騒然となってきた。その時、任侠社長がスクッと立って前へ出た。そしてふんぞり返っていた旅行社に向かってよく通る声で言った「あんたらど素人じゃないかい、中国じゃ袖の下ってもんがあって、それで手打ちってことぐらい分かんないのかい、此処はあっしに任せてもらえば、目すって鼻かむ間に徳島に向かってるってもんだ」とすごんだ。旅行社は平身低頭、ひざまずいて「これは私どもの責任ではありません。中国南方航空が税関と揉めているようで、こちらで解決するよう働きかけますのでしばらくお待ち下さい」と涙ぐんで言った。徳島空港に降り立ったとき炎天下にもかかわらず涼やかな一陣の風が吹き抜けた。秋に向かっていると思った。

(忠)