雑 感

喫 煙 に つ い て


 事務所に禁煙令が布かれた。このため事務所は田園のような清浄な空気に満ちあふれているが、反面廊下には、もうもうと煙が立ち混んでいる。これは灰皿代わりに、水を入れた大きな缶が置かれ、急ごしらえの喫煙室となって、入れ替わり立ち替わり、喫煙家達がたむろしているからである。まことに見苦しい。見苦しいなら「たばこを止めろ」と言うのは、禁煙派の言い分で、愛煙派にとっては、禁煙は、拷問に等しい。

 私は大変な愛煙家だから、事務所内で長時間会議をすると、もうろうとして半ば他人である。だから、後日言った、言わないと揉めることがあるが、なに、聞いていないのである。禁煙して、1時間も過ぎると集中力がとぎれ、虚無の状態にある。

 最近の嫌煙権は、止まることなく浸食している。暴力的ですらある。禁煙を強いる法的根拠はないし、医学的根拠も曖昧である。それが時流と言うものか、愛煙家だったものが急に寝返って、露骨にいやな顔をしたりする友人がいる。こういったやからには、飲みに行ったときに副流煙を延々とたなびかせて、復讐している。家内も以前は寝床に灰皿を持ち込んで、一服して就寝しても文句一つ言わなかったのに、現在はどうだ、キンとした鋭い声でヒステリックになじるのである。まさに時勢の虎の威を借りる不届者である。自己の権利を主張して他人を思いやる心がない、嫌煙権があれば、喫煙権だってあるのである。

 こうは言うものの、実は私ガンが怖くて、何度も禁煙を試みているのである。禁煙茶や禁煙飴を買った。禁煙パイポやドイツ製の禁煙パイプも使用した。ニコチンシールを貼ったし、ニコチンガムも噛んだ。ニコチンのない煙草も吸った。ことごとく失敗した。禁煙を決意した瞬間から心が不安定になり、激しい禁断症状がでるのである。しかし禁煙に努力したかどうかは定かでない。禁煙茶を飲みながら煙草を吸っているのだ。だから煙草を止めたという人は、神のように神々しい。こういった人は、人生に目標を持ったら、それに突き進む強い意志を持った人だと畏敬の念を持つのである。

 煙草は止められないがマナーは守る、常に携帯灰皿をポケットに忍ばせている。

 以前こんな事があった。車で徳島本町交差点にさしかかり、赤信号で停車したときである。白い物が降ってきたと思ったら煙草の吸い殻がフロントガラスの前で燃えている。日頃は気弱で温厚、沈着、冷静を旨とする私もさすがにカッと血が上った。”おのれ無礼者、そこに直れ、成敗してくれるわ”と思った。このような人間を許すわけにはいかない。黙っているのは罪悪であり断じて許してはならない、社会正義にもとる。怒鳴って反省しないなら、引きずりおろして、鉄拳の一つ、回し蹴りの一つも見舞ってやろうと意気込んで、手回しのガラスを下ろし、トラックの左座席を見上げ「コラー」のコまで発声して息を飲んだ。左座席からぶらぶらとさせている手の小指の第1間接から下が、無いのである。麦藁帽かぶった色黒の顔は、いかにもその筋と思われる、もの凄い人相で、その男と目があった。思わずか細く「すみません」と言って慌て窓を閉めたが、その信号の長いこと。依然としてフロントガラスの前の吸い殻はくすぶっている。青になって急発進して吹き飛ばしたが、膝はわらわらと震えていた。

 これも、随分前のことであるが、友人を助手席に乗せて、経済センターの前を通りかかった時、その友人がポイと吸い殻を外へ放り投げたが、その吸い殻が、窓を開け放した、駐車中の車の後部座席に飛び込んだ。その車のシートはビニールと見えてくすぶっていた。そのまま逃走したが、あの車どうなったのだろうと今でも思う。

 煙草の効用は大きい。まず持って美味しい。コーヒーと煙草は、梅とウグイスのようによく似合う。ゆったりと煙草を吹かす時間は何事にも代え難い。覚醒と鎮静作用を併せ持つ優れ物である。私にとって煙草は嗜好品というより生活の一部になっている。しかしとも思う。環境衛生上、防災上その害が、社会に及ぼす影響も大きい。心は千々に揺れるのである。このゴールデンウィークに今一度禁煙に挑戦してみようかなと思いながら、今一服点けている。

(忠)