雑 感

ケ チ に つ い て


 私は気位が高いのか、ケチと言われるのを何より恐れる。しかし根がケチなので気付かれないよう身構えていても、それは自然と露出して、しぶちんと揶揄されることも多い。
 年下や下役を食事に誘ったときは、勘定を持つように心がけてはいる。年上や上役が誘ったら、それは業務命令みたいなものだし、部下をねぎらうといった気持ちもあるので、意を決して財布の中身を思案しながら支払うのである。
 もちろん例外はある。中には伝票を素早く奪い取る者もいる。勘定の場になって、財布をかざして先を争うのはみっともないと思っているので、そんな時は素直に払って貰っている。
 また法人と食事する時や、誘った相手が高熱で自慢話ばかりを聴かされた時は、勘定になるとトイレに行ったり、わざとレジに遅れていったりして、テクニックを駆使して払いを免れている。これは私がホストを務め、ホスピタリーを施したのだから当然だと思うからである。
 娘が見合いの相手とデート中、800円の定食を割り勘にさせられたので、ご縁を断ったと言う。「それで良い」と私はキッパリ言った。男は男前より気前なので、女性・子供に割り勘なんて言うやつは”糞食らえだ”
 ところが私の友人の中には、そば屋へ行くと、袋に入った高級そうな楊子を5〜6本つかんで、内ポケットに入れる者がいる。セルフサービスのうどん屋では、300円の大盛り掛けうどんを注文して、無料の天かす・鰹節・ネギを山のように盛り掛けている奴もいる。ラーメン屋へ行けば、各テーブルにサービス用として置かれているキムチをたっぷり入れて、たちまち朱に染まった山火事のようなキムチラーメンを作る豪傑もいる。これはケチと言うより業突張りと言うべきだろう。
 とは言うものの、私も50歩100歩であって、上役、下役、ご同輩が、昼食で中華料理に行った時の話だが、いろいろ注文して最後に皿の上にシューマイ1個が残っている。こう言うのは誠に困惑するもので、年功序列というわけにも行かない、結局の所残して帰るのだが、家に帰ってもシューマイ1個の悩みは残るのである。
 豪気を気取っていても、本質はせこい人間なので物が買えない。旅行などに行って周りがどんどん土産物を買っているのに、私は買えない。何か買わねばと焦っているのに買えないことがある。
 実に”みみちぃ”話だが、例えば1万2千円の素敵なゴルフウェアがデパートで目に付いたとする。これが買えないのである。気に入っているのにさっと買えない。2・3度見てまだ買えない。4・5度見て買い損ねることがある。だからタンスの中はユニクロでひしめいている。家内に「男のくせに何でこんなにあるのよ」と小言をいわれている。しかし回を重ねて買った品物は、他とは集中力のようなものが違っていて、使う度に愛着心が募ってくるのである。
 9月15日の夜、新町川たもとの公園を通りかかった。そこにはシマのユニフォームや法被を着た虎フアンで埋め尽くされ、ラッパの音にメガホンを打ち鳴らし、六甲おろしの大合唱が夜空に響いて、熱気が渦巻いていた。そうか、阪神タイガースが優勝を決めたのか。感激した、私もガッツポーズを繰り返し、新町川に向かって大声で万歳三唱し、渦の輪に入り祝福に参加しようとしたが、そこでたじろいだ。大勢のフアンがビール掛けをしているではないか。ビール掛けは選手や球団がやるものだと思っていた。私はタイガースファンだし酒も好きだが、ビールは飲むもので掛けるものではないのでないか。第一、飢饉で苦しむ後進国に失礼ではないのか。これで個人消費が促進されて日本の景気が回復するのか。と思慮深い性格の私は、”実にモッタイナイ”と思ったのである。
 気っぷが良いとか太っ腹と言うのは何と響きの良い言葉だろうと思う。しかし社会の評価というものは、時代によって変化するもののようだ。現在のデフレ不況下では、個人消費が伸びないから景気が悪いと言う。日本総国民が、湯水のごとく金を使えば、さぞかし景気は上向くだろう、財政は好転し、年金問題も解決するのだろう。しかしバブルのインフレ時には、中野孝次著の「清貧の思想」がベストセラーになった。これによると清貧を尊ぶ思想は、日本文化の伝統として最も高尚な生き方とされている”低く暮らし、高く思う”ことこそ人の道だと説く。よく考えてみると、私も子供の頃には、始末、倹約は美徳と教えられた。そう言えば、私達は5年連続給料が下がっているのである、人が何と言おうと、ケチはケチのままで良いではないか、老後の生活は不透明だ、これからは世間体など、どこ吹く風の”清く、貧しく、美しく”生きていこうと考えるのである。

(忠)